Chapter 01 - Ep02: 変な奴
* * *
◆01◆
翌朝。
目覚めた瞬間、昨日の出来事が夢だったような気がした。 土手で会った、あの不思議な先輩。唐突な誘い。音楽への渇望が滲んだ瞳。
「……本当に、あんなことあったのかな」
スマホを確認する。 着信も、メッセージもない。連絡先を交換したわけでもない。 ただ、「旧音響実験棟の地下においで」と言われただけ。
「旧音響実験棟……」
そんな建物、青藍大学にあったっけ。 入学したばかりだから、キャンパスの地理もまだ完璧には把握していない。
とりあえず、行ってみるか。 断る理由も、特にない。
もしかしたら、行ってみれば何か変わるかもしれない。
――いや、変わらなくてもいい。 ただ、誰かと音を出せるだけで、今は十分だった。
* * *
◆02◆
午後の空き時間。 キャンパスの端、人気のない裏手へと歩いていく。
古びたレンガ造りの建物が見えてきた。 正門から最も遠く、周囲には雑草が伸び放題。 建物の壁には蔦が這い、窓のいくつかは板で塞がれている。
「……ここ?」
入口のプレートには、薄れかけた文字で「第二音響実験棟」と刻まれていた。 確かに「音響」の文字はある。でも、今も使われているようには見えない。
ドアノブに手をかける。
ギィィィ……。
鈍い音を立てて、錆びついた扉が開いた。
「うわ……埃っぽい」
内部は薄暗く、空気が淀んでいる。 廊下の両側には、実験機材らしき古い機械が埃をかぶって並んでいた。
階段を見つけ、地下へと降りていく。 段差が不揃いで、コンクリートがところどころ欠けている。 スマホのライトを点けながら、慎重に足を進める。
カツン、カツン……。
靴音だけが、冷たい壁に反射して響く。
* * *
◆03◆
地下フロアの一番奥。 薄明かりが漏れている部屋があった。 重厚な防音ドアが、ほんの少しだけ隙間を空けている。
ドアには、ホワイトボードに手書きの文字が貼られている。
『Studio 01』
恐る恐る、ノックする。
コンコン。
「……開いてる」
隙間から、あの淡々とした声が聞こえた。 私はドアを押し開けた。
* * *
◆04◆
部屋の中は、想像以上に広かった。
天井は低いが、奥行きがあり、壁一面に吸音材が貼られている。 隅には古いミキサー卓、アンプ、マイクスタンド。
そして――
「うわ……すごい」
奥のスペースには、キーボードが二台並んでいた。 どちらも年季の入ったヴィンテージ機材だが、メンテナンスは行き届いている様子。 ケーブル類も整理され、まるでプロのスタジオのように配線されていた。
「よく来た」
振り返ると、澪さんが床に座り込み、ノートパソコンを開いていた。 いつものヘッドホンを首にかけ、缶のエナジードリンクを片手に持っている。
「あ、あの……これ、全部……」
「使える。誰も来ないから、私が勝手に使ってる」
勝手に、って……大丈夫なのかな。 まあ、聞かない方がいいかもしれない。
「昨日の音、もう一回聴かせて」
澪さんは立ち上がり、私の方へ歩いてくる。 その目は真剣で、まるで何かを確かめようとしているようだった。
「ええと……じゃあ、ギター、出しますね」
私はケースを開け、アコースティックギターを取り出した。 澪さんは、私の手元をじっと見ている。
「それ、ヴィンテージ?」
「はい。祖父の形見で――」
「ペグ、交換してる」
え。
見ただけで、分かるの?
澪さんは無言で近づき、私のギターに手を伸ばした。 細い指が、弦をそっと撫でる。
「……フォスファーブロンズの、ライトゲージ。煌びやかさを出したい派?」
「っ……はい」
驚いて、思わず頷いてしまった。
弦を触っただけで、素材と太さが分かるなんて。 この人、本当に詳しいんだ。
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◆05◆
「じゃあ、マイク立てるから」
澪さんはマイクスタンドを私の前にセットした。 私は言われるがままに、マイクの前に座り直す。
「何か、弾いて」
「何をですか?」
「昨日と同じ。適当でいい」
同じ、って言われても。 昨日は本当に何も考えずに弾いてたから、覚えてないんだけど。
「……じゃあ、適当に」
Eコードを押さえ、軽くカッティングする。
ジャキ、ジャキ、ジャキ、ジャキ。
規則的なリズム。 単純なフレーズ。
澪さんは目を閉じて、じっと音に集中している。 ヘッドホンからは、微かに何かの音が漏れている気がした。
「……BPM87。微妙に速くなってる」
え、そんなの分かるの?
「君、リズム感いいね。テンポキープが自然」
「ありがとうございます……?」
褒められてるのか、分析されてるのか、よく分からない。
* * *
◆06◆
澪さんはパソコンの前に戻り、何かをタイピングし始めた。 画面には、波形が表示されている。
「さっきの音、録音した。ちょっと見てみて」
私は覗き込む。 波形が規則正しく並んでいるのが見える。
「ここ」
澪さんが、画面の一部を指差した。
「ピッキングの瞬間、微妙に倍音が増える。普通のギターより豊か」
「……それって、良いことですか?」
「面白い、ってこと」
彼女はそう言って、微かに笑った。
――初めて見た、澪さんの笑顔。 ほんの少しだけ、口の端が上がっただけだけど。
「君の音、他の人と違う。感情がそのまま振動になってる」
感情が、振動に。
「良い意味で、コントロールできてない。だから、聴いてる側に伝わる」
なんだか、不思議なことを言う人だ。 でも、嫌な感じはしなかった。
むしろ――自分の音を、こんなに真剣に聴いてくれる人に会ったのは、初めてかもしれない。
* * *
◆07◆
「私も、弾く」
澪さんはキーボードの前に座った。 電源を入れ、鍵盤に指を置く。
「合わせてみよう。君のEコードに、私が音を乗せる」
え、いきなりセッション?
「準備とか……」
「いらない。感じたままでいい」
澪さんは、私を見ずに鍵盤を見つめている。
「じゃあ……いきます」
私は深呼吸して、再びカッティングを始めた。
ジャキ、ジャキ、ジャキ、ジャキ。
数小節経ったとき――
ポロロン……。
澪さんの指が、鍵盤を撫でた。 淡く、透明感のある音色。 私のギターのリズムに寄り添うように、メロディが紡がれていく。
「……っ」
鳥肌が立った。
私のギターが「土台」で、澪さんのキーボードが「空」みたいだ。 二つの音が重なって、初めて「景色」になる。
「もっと強く」
澪さんが言う。
「怖がらないで。もっと、思い切り弾いて」
私は息を吸い込み、強くピッキングした。
ジャガァン!
音が、部屋中に響き渡る。 澪さんのキーボードも、それに呼応するように音量を上げる。
二人の音が絡み合い、ぶつかり、そして溶け合っていく。
気づけば、私は夢中で弾いていた。 何も考えずに。ただ、音を出すことだけに集中して。
* * *
◆08◆
音が、止んだ。
私と澪さんは、同時に手を止めた。 まるで、最初から決めていたかのように。
部屋に静寂が戻る。 耳の奥で、微かに残響が鳴っている。
「……すごい」
澪さんが呟いた。
「やっぱり、君だ」
「え?」
「探してたのは、君みたいな音を出す人」
澪さんは、私をまっすぐ見つめた。 その瞳には、何か強い意志のようなものが宿っていた。
「一緒に、やろう。バンド」
「はい」
私は、迷わず答えた。
だって――
今、確かに感じたから。
この人となら、何か特別なものが作れる気がする。
* * *
◆09◆
「じゃあ、正式に自己紹介」
澪さんは缶を置き、私に向き直った。
「雨宮澪。三年、情報科学部。キーボードと、音作り全般担当」
「響乃理です。一年、文学部。ギターと……ボーカル、やってます」
「よろしく、理」
澪さんは、小さく手を差し出した。 私はその手を握る。
冷たくて、細い手。 でも、確かな強さがあった。
「明日から、ここで練習しよう」
「はい!」
私は、心から笑顔になれた。
廃部になって、一人ぼっちになったと思ってた。 でも――
新しい場所で、新しい音が、もう始まっていた。
部屋を出るとき、振り返る。
薄暗い地下の、古びたスタジオ。 それでも、ここは私の「居場所」になる気がした。
Studio 01――
まだ二人しかいない、小さなバンドの物語が、今、動き出す。
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